23年ぶりの日本

僕は8歳の時に日本を離れてシンガポールで育ちました。そのままアメリカへ渡り大学院まで出させてもらい作曲のお仕事やヤマハ音楽教室の先生等をしていました。2002年のある日、突然日本の血が騒ぎ始め、母国、日本に帰る事を決意しました。理由も分からぬまま心の赴くままその年の冬帰国。23年前の暖かく、元気いっぱいの日本の思いでをひきずったまま。。。

帰ってきた日本はガラリと変わっていました。東京に住み込んでいろんな仕事をしましたが物価が高すぎて生活するのに精一杯。若者達が生活に追われ夢も希望も後回しにしている現実。そしてメディアから流れるのは目と耳を覆いたくなるような犯罪、家族の崩壊、命の無残な結末、そして腐敗しきった政治のニュースばかり。

こんな日本に帰ってくるためにアメリカの生活、大事な友達を捨ててまで帰ってきたのか??

そんな中僕は仲間を集めて「ゆーとぴあすとりーと」という音楽集団を作りCDも2枚出しました。苦しい中に心の安らぎと希望の光を作りたいと思って頑張りましたが2年が経った時に僕自身の個人的な理由で解散しました。メンバーのイクトとマサキはそれから俳優業を目指し、女の子のおせつとシホは太陽の子供から取った「サニチル」という名前で二人のユニットで再出発しました。

僕は作曲家としてテレビCMやドラマの仕事をするようになり、運良く次の年にはなんとかそれで生計が立てられるようにはなりましたが日本に対しての違和感と失望感は薄れる事はなく、ストレスと汚染された空気でボロボロになった体にたえられずにいつしか日本を離れる事しか考えられなくなっていました。

旅に出る決意

そんな中大好きな寅さんや裸の大将のドラマを久しぶりに見ました。ドラマの中には日本の暖かい人情と素敵な自然、そして旅をしながら生きる人間の姿がありました。もともと放浪癖のある僕は昔からの夢だった放浪型の音楽人生の事を考え始めました。

本当に僕は日本に居るべきなのか?何のために日本にいるのか?
なんの為に日本で音楽家として存在しているのか?

とりあえず日本の隅々を見て嫌いになりかけていた日本の良い所をいっぱい見て感じたいと思っていました。悩む事1年、2007年の10月にシンガポールにいるお母さんに悩みを相談した所思いもよらず同感、協力してくれた事や周りにいる大好きな人たちが応援してくれたのをきっかけにあこがれを現実にする決心をしました。

旅の準備

決意した所で実際に住み慣れた家と町を離れるのにはとても勇気がいりました。なかなか動けない自分を見て、イライラした僕はまず住む場所を取り上げました。

2007年10月15日付けで僕は住処(すみか)を手放しました。

そして旅をする為の車を探しました。すると数日後には友達が14万キロのスズキのジムニーを無料でくれました。車を所有するには住所が必要で、体の弱い僕にはどうしても必要な健康保険も住所が必要でした。両親はシンガポール、弟はドバイにいる為、頼れる所は茨城県にいる母方の実家だけなので無理を言って住所だけおばちゃんの所におかせてもらう事になりました。だから僕のジムニー君は水戸ナンバーなんです。

今まで様々なコマーシャルや映画、ドラマ等の音楽制作に使ってきたスタジオのコンピューターはでかすぎて車に乗らないのでほとんど処分し、新しい小型のノートパソコンに代えました。百以上のプロジェクトが入っているのでそれのデータの移行と新しいシステムへのコンバートに丸1ヶ月かかりました。

その間ずっと茨城で家業である酪農の手伝いをしながら住み込んでいました。旅に出たらどこに行くのか、何をするのか。。。そんな不安は頭から消えず、居心地の良い茨城の家にずっと居てしまいそうな感じで、

家はなくなったものの旅に出ているのか出ていないのか、とても中途半端の毎日でした。

おかあちゃんからのメール

忘れもしない2007年11月19日の夕方、一通のメールがあまり開ける事のないメールボックスに入っていました。それは加藤りつこさんという方からでした。加藤りつこさんは加藤貴光君という青年のお母さん。手紙の内容は僕の曲を聞いて感動したという感謝の言葉のものでした。そのメールはこちら。

にこにこ新聞

僕が一番病んでいた時にサニチルのおせつさんが言ってくれた言葉があります。「なんでテレビ番組やニュース番組はたくさんあるのににこにこになれる幸せなニュースばかり取り上げる番組がないんだろうね」。人が元気に生きて行くために必要なのは凶悪犯罪のニュースばかりではなく各地で頑張っている人や幸せな出来事のニュースのはず。ネットのポッドキャスティングというブログ形式を利用して日本各地の隠れたにこにこなニュースを探しては音声番組にして流す「にこにこ新聞」を始めたのが2006年の12月の事です。

2007年1月17日、いつものようににこにこ新聞のネタをネットで探していると神戸の震災の事だらけでした。その中である人のブログに「親愛なる母上様」〜翼の生えたうしより。という手紙の事が書かれてあるのを見つけました。よく読むとそれは加藤貴光君という震災で命を落とした青年が生前にお母さんに送った手紙でした。

今となってはあまり覚えていないのですが、よっぽどその手紙に感動したのでしょうか。いつのまにか僕はその手紙に曲を付けて、レコーディングまでして、にこにこ新聞にアップしていました。その時まさか彼のお母さんが曲を聞いてくれるとは思ってもいませんでした。むしろ聞いてくれたら勝手に手紙を曲にして謝らなきゃと思っていました。

おかあちゃんとの出会い

加藤りつこさんとのメール交換が始まり、僕が旅に出る準備中だと告げると広島に来て広島から旅に出る事を提案してくれました。どちらにしろ無計画の旅だったので最初は行き先が見つかったくらいの軽い気持ちで広島に行く事を決めました。

茨城のおばちゃんはそんな僕に忠告をしてくれました。一人息子を一瞬のうちになくした母親に会い、その彼の手紙をお前が歌っているという事がどんなに責任の重い事か覚悟しておけと。普段は強く大きなうしとも互角に張り合うおばちゃんが曲を聞いて涙を流したあたりからこの曲の力は感じていましたが、本当の事は分かりませんでした。

事の流れに身を任せ僕は広島に向かいました。

広島へ

実際に会ったお母ちゃんはとても気さくで楽しい人でした。とても笑顔が可愛い素敵なお母さんでした。しかし数日間一緒にいると彼女が今でも「悲しみ」の中で生きている事が分かりました。13年間忘れる事のないあの日の事が毎日蘇りお母ちゃんをとげとげのムチで痛みつけます。泣いているのか、違う世界に行っちゃっているのか。。できる事ならお母ちゃんも死んでうし君と同じ場所にいたい。。そう思ってきた13年。それでも生きてきたのは手紙の存在のおかげだったそうです。

よく聞けば手紙のおかげで今までもたくさんの人との出会いがあったそうです。「あの子が会わせてくれてるんだ」と信じて一つ一つの出会いを大切にして来たそうです。

そして今回の僕との出会いは震災の時期に合わせて各新聞、そして関西テレビのスーパーニュースAnchorという番組で取り上げられました。

僕が勝手に曲を書いて、勝手にネットにアップしただけの事がこんなに大きな事に発展した事に僕は焦っていました。胸を張って「僕がこの曲を作りました」って言う程考えて作ってはいないし(自然にできた曲だから)、人前でこの曲を歌う程、僕の歌はうまくもなく、練習もしていない。そして一番悩んだ事は僕にとってこの曲はまだ見も知らぬこの世にいない青年が書いた手紙に僕が直感的、本能的に曲にしてしまっただけの曲だという事でした。この曲、手紙の持つメッセージと存在する意味を知らずして、テレビの前や客の前で歌う事はとてもとても苦しいものでした。

しかし初めて歌った教会で加藤貴光君の存在と僕の後ろにある十字架が少し重なった瞬間がありました。その意味は分かりませんが少し存在が見えたような気がしました。

そして手探り状態のままライブを重ねて行き加古川の小学生600人の前に立った時にうし君が最終的な答えをくれました。

それは「命」でした。

旅立ち

広島、神戸でのコンサート活動はとても充実していて、有意義な物でした。しかし最初の旅の目的を忘れる事はなく、もうその時には敬意をこめて「おかあちゃん」と呼ばさせてもらっていたお母ちゃんにとにかくいっぺん旅に出たいと申し出た所快く承諾してくれ、いったんコンサートのオファーをストップしてもらい、僕は1月25日に本州で一番遠い鹿児島の志布志港にフェリーで向いました。

あまりにも急激な人生の展開に僕自身がついて行けなかったのと、当初の旅の目的(知らない日本を独り旅する)を実行もせずにはいられなかったのでしょう。

今思うのですが、この時はまだ僕は「親愛なる母上様」を歌わされてたのだと思います。この歌の力、そして音楽という物の力に人生を捧げる覚悟ができたのは実はもっと後の話しなんです。

九州へ

宝塚親子劇場のコンサートがお母ちゃんが用意してくれたコンサートの数々の最後でした。正直疲れ果てていました。不慣れなうえ、へたくそで、10分のコンサートをするのが精一杯でした。ほとんどがお母ちゃんの話で、僕は最後に歌うだけでした。申し訳ないやら、情けないやら。もともと僕は3ヶ月位日本を放浪して、昔ながらの日本を旅したら外国へ戻ろうと思っていたので悩み始めていました。親愛なる母上様を歌って日本を旅するか、それとも、予定通りアメリカかシンガポールへ行くか。。。

頭がいっぱいになって、とりあえずもともとの目的だった日本を放浪する旅を続けさせて欲しいと、宝塚のコンサートのあとすぐにお母ちゃんや新しい友達と別れ、大阪港から鹿児島の志布志港へフェリーで行きました。その時にお母ちゃんが渡してくれた手紙には「二人の息子たちへ」とあり、一万円札が3枚入っていました。未だに使えないその金と、涙無しでは読めない手紙はいつも体の近くにあります。息子をなくした母親の気持ちなんて男で、しかも親になった事もない僕には理解できる訳もありませんでした。なぜ勝手に曲にしてしまい、へたくそに歌う、みすぼらしいただの世捨て人の事をそんなによくしてくれるのかが分かりませんでした。だから良くされるのがつらくてつらくて、できるだけ遠くに行こうと思ったのです。僕は本当にお母ちゃんには申し訳ない事をしたと思っていました。大事な大事な手紙に勝手に曲をつけて、へたくそに歌って。

鹿児島

鹿児島までは関西テレビが同行してくれました。いろんな事が頭の中で飛び交っていて、ろくなコメントもできずに大変申し訳ない事をしました。これからの事なんて聞かれても分からないし、むしろ分からないから旅に出て来た訳で。。人生の設計図が頭の中にあったらきっと旅に出る必要もなかったし、普通の大人の人たちのようにきちんとした会社に入ってまともな給料をもらって生活してるでしょう。

「この歳になってなにやってんだ。。。」

関西テレビの人たちが帰って久しぶりに独りになった時に思いました。

独りになった時間はとても神聖でした。いままでの全ての記憶が蘇り、まるで他人の人生を見ているかのような感じで自分の人生を振り返る事ができました。そうやって独りで旅をしているといろんな出会いがありました。

 

出会い

出会いは必然と言われますが、1億分の1の確率でしか起こりえない「出会い」というものをこんなにありがたく感じた事はありません。鹿児島の根占にある温泉「ねっぴー館」で隣で鹿児島弁を話していた二人の男性。「あの、それ日本語ですか?」「はい、日本語です(笑)」から始まった会話。またどこかで。。といい帰って行った後、僕は町の居酒屋で飯を食べていると、ガラガラとドアが開いてあの二人が入って来ました。「あら、さっきの」と言うと「さっきはすまなかった、今からうちに来い」と。。どういう事かと訪ねると温泉で別れて家に帰って飲んでたらさっき会った若い旅人の世話もせず帰ってきてしまった自分達が許せなくなったそうで、奥さんの運転で1時間以上も町中僕の白いジムニーを探しまわったそうです。そのまま二人の家に連れて行って地元の焼酎とご飯を頂きました。。

「男の旅の邪魔はせん」といい家の中には泊めないが家のそばに車を泊めて寝てくれと渋い優しさを見せてくれました。次の朝、真っ白になった窓ガラスを叩く音で目が覚めました。谷川さんの奥さんでした。谷川さん夫婦には子供がいません。谷川さんの両親がなくなったのをきっかけに田舎にかえってきました。けど跡継ぎがいません。それでも最後まで責任を持って墓を守る。そんな生き方を選択した人たちです。根占の墓は花畑です。花が絶える事はありません。

そんな奥さん(みっちゃん)が僕に弁当を渡してくれました。にこにこしながら言いました。子供がいないからいつも2つ弁当を作るそうです。けど今朝はマサクンが来てくれたから3つ作る事ができた。食べてくれたらうれしい。。。と言いました。

ずっと都会にいて人に迷惑をかけないように、人に世話にならないように生きるのが常識だと勝手に思わされていました。谷川さんたちのおかげで懐かしい自分が少し顔を出しました。

根占の道の駅で崖崩れを修理していたシャベルカーの運転手の丸さんに声をかけてもらったのはその数日後。バイクで全国を旅するのが唯一の楽しみという彼と話しが弾み、気づいたら仕事終わりに彼のお家にお邪魔する約束をしていました。

丸さんの家には亡くなった奥さんと家を出た二人の子供達の匂いが残っていました。そこで独りで住んでいる丸さんは焼酎が大好きで人には人一倍優しい人でした。家の中には一つも奥さんの遺影や子供達の写真がありません。「寂しくないの?」というと「寂しくないよ」という。家の中の写真は知り合いや友達の子供のものばかり。まるさんが酔っぱらい風呂に入っている時にふと目についた小さなドアがあり、そのドアをあけたら、そこは子供達の今は使わないランドセルや奥さんの思い出のものが飾られていました。まるさん、きっと寂しいんだ。。そう思いました。

宮崎では関西テレビの方の紹介でライオンズホテルという温泉付きのビジネスホテルの社長さんに世話になりました。ソフトバンクホークスのコーチの田口さんとも仲良くなり、旅について、人生について、たくさん語り合いました。一緒に温泉にも入りました。

また東京の友達の友達にも会いました。焼き肉屋を経営してるんだけど日本は狭いと思っているらしく、外国に行きたいと行っていました。僕の外国での話しや弟がドバイで日本食をやっている話しなどたくさん話しをしました。

そして高千穂に行きました。日本とは神の国なんだと改めて感じました。昔からの日本の価値観、自然への気持ち、自然と共に生きる生活様式。いろんな所にある感謝の意を意味する神社や祠、そしてそれにまつわる音楽、舞、芸術に切ない程の愛しさを感じるのでした。川が流れていたらその川に感謝し、雨が降ったら雨の神様にお供え物をし、魚を食べたら魚の神様に感謝する。そんな日本の姿があらゆる所にありました。美しいと思いました。

熊本の阿蘇に入る前に立ち寄った地獄温泉で知り合った柳川の人にパンをもらいました。

熊本ではビエントというアーティストに出会いました。紹介で出会ったのですが、僕は生まれて初めて他の音楽人を尊敬しました。ミキさんという作曲、シンセサイザー担当の女性と万里(ばんり)さんというケーナ(笛)と語りの男性のデュオなんだけど、人のライブを見て「うらやましい」とか「鳥肌がたった」とか「涙が出た」のは初めてでした。僕が旅の途中だからとかではなく、その音楽性、メッセージ性、そしてこの二人の生き方に心から感動しました。

そしてビエントの福岡公演に出演させてもらう事になったのです。

阿蘇神社では僕と同い年の人に会いました。阿蘇神社にある横参道に人を呼び戻す為の町おこしをはじめ、今はたくさんの人でにぎわっていました。「よっぽど斬新で新しい事をしたんでしょうね」と言ったら「昔に戻しただけだ」と言いました。

その前に大分県にいるアメリカの画家のアツシの両親にサプライズで会いに行きました。電話番号が分からず、住所しかなかったので仕方なかったのですが本当に驚いてました。実はアツシも若い頃自転車で日本一周をやったらしくその時はたくさんの人に世話になったからそのお礼で僕にも本当によくしてくれました。

そして福岡についてビエントさんのファン600人の前で「親愛なる母上様」を歌いました。ステージの脇で聞いていてくれた尊敬するビエントの二人が聞き終わった後に涙を流して「ありがとう」と言いました

茨城で酪農を営んでいたのに福岡の山に10年以上前に30頭のうしを連れて引っ越してきたという酪農家の所に行きました。製薬会社のエリートマンだったのにも関わらず病気を治すよりも病気にならない体作りの仕事に就きたいと思い、1年かかって家族を説得して酪農家に転職したそうです。数年の研修を経て茨城で酪農を始めたのですがある時九州でもっとのびのびとうしを育てたいという夢が現れ、いても経っても居られずに引っ越してきたそうです

僕が全てを犠牲にしてもアメリカから日本に来てしまった事や、持ち物を空っぽにしても東京を出て旅に出た事を「普通そうだろう」と言ってくれました。奥さんが彼の夢を理解するのに1年かかったそうですが決めての言葉は「オレは酪農家にならないと死ねない」だったそうです。

八女市には宇宙から地球を見る事ができる人に出会いました。物の見方、考え方が本当に大きくて、偉大で、凄い人でした。子供の教育に携わっていて、人に与える事が生きる事だと断言されました。

地獄温泉で会った柳川の人と連絡がつき柳川で会いました。町おこしの一環として柳川勉強会を開いているそうです。東京に長い間住んでいて帰って来た故郷の良さを知り、長い間空けてしまった故郷の為に尽くしています。夢は「柳川城」を復活させる事だそうです。

佐賀では地元を愛し、大阪と佐賀を行き来する生活をしている事業家に会いました。たくさんの名言と知恵を教えてもらいました。

 

覚悟

偶然の出会い、紹介の出会い、すれ違いの出会いなどいろいろありました。全ての人が一生懸命生きていました。そして信じる道を進んでいました。先祖の為に生きている人、人の為に生きている人、自分の為に生きている人。全ての人が自分で選んだ道を誇りを持って生きています。そしてそういう人だからこそ旅にでて自分の生きる道を探し求めてる僕を応援してくれ一食、一泊、一遊を共にしてくれました。

そして全ての人が僕に言いました。素敵な歌(親愛なる母上様)をありがとう。と。

無謀な旅に出ようとしていた僕にうし君の手紙がお母ちゃんと出会わせてくれた

手紙のおかげでテレビや新聞を通したくさんの人に出会えた

手紙と曲を聞いた人がこんな僕に「ありがとう」と涙を流し、旅の資金としてCD代をくれた

そのお金で僕は旅をした

旅ではいろんな出会いがあったが手紙のおかげでより意味のある旅になった

そして日本は思っていたとおり美しい事が分かった。

僕の尊敬するビエントさんまでもが僕が言う前に「ありがとう」と言った

手紙のおかげで僕は子供達の前で「お兄ちゃん」になれた

僕が意図しない所で手紙と体の無い魂と音楽の力が動いている

そんな偉大な力の前に僕のちっぽけなエゴや羞恥心や肝っ玉のなさなんて無意味に思えた

そして、音楽を形にし、そして伝えていく「道具」としての「音楽家」として
この美しい国、日本で生きていく事を「覚悟」する事ができた。

それが九州の旅でした。